ゴゼ迎きやァん火【ゴゼムキヤァンヒ】
◯地域
◯概要
町から御宇田の宮へ行く道のすぐ東端の井尻というところに、一本の大きな椋の木がある。その下に古い墓がかたまって建っている。里の人たちはここを、”ふうぞ島”又は”ふうぞ墓”と言っている。
毎年昼はまだ暑さが厳しい初秋の招魂祭が始まって「おどり川」から新通丁に続いている広場に舞台がかかって三味や祭囃子の音が深夜の御宇田原に響き、やがて最高潮を迎える時分になると、きまってふうぞ墓から狐日が現れて、フワリフワリと御宇田の方に往ったり、来たりするので、大勢の見物人は恐ろしくなって逃げ、舞台も幕を引いて切り上げた。町では毎年祭の頃になると狐火が今年は出ない、いや出ると、恐々として落ち着かなかった。
古老の話によると「昔三味線と踊りの上手な美人の芸者がいたが、悪病に罹ってしまい、その上、男(内縁の夫)からは逃げられて40歳頃とうとう病死してしまった。苦しい息の下から逃げた男の名を呼び続けて息を引き取った。若い頃は祭の余興の花形の売れっ妓であったそうである。毎年、祭が始まり、おどり川(新通丁広場)に舞台がかかって、深夜に三味、太鼓の祭囃子が、ふうぞ墓に伝わると狐火が現れていた。里人はこの狐火はふうぞ墓に眠っているかつての芸者達で、祭のスターであった美人芸妓を迎える合図となり、人魂は逃げた男を迎える合図の三味の音ともなった。」という。
この様になったのは、毎年ふうぞ墓の掃除を怠ったり、故人の供養を放ったらかしにしているから、狐火が出るのだろう。翌年からは里人たちが墓の掃除をした上、お坊さんを呼んで、ねんごろに供養を行い、故人を刺激していた、おどり川の舞台を廃止したので、それからは狐火(人魂)は現れない様になったという。
人々は、この狐火を”ゴゼむきやァん火”と言っている。
この地域では人魂の事を狐火と呼称するようです。鹿本町では、狐火の事は狐火と呼称しているので、原因不明な怪火は全て狐火と呼んでいると思われます。
ゴゼ迎きやァん火=ゴゼ迎えの火
◯参考文献
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