左馬ドンの火【サマドンノヒ】
◯地域
菊池郡大津町
◯概要
明治15、6年頃まで鍛冶村の東方左馬殿塚の付近から、弓立の丘にかけて春と秋の暖かい夕闇にひと塊の鬼火が出た。それが2つとなり3つとなって飛び回り、時には引の水の西の墓所付近まで、あちらこちらにポカポカと見られた。
『管内実態調査書.阿蘇編』の取材当時7、80歳くらいだった古老の言によれば、これは維新前より見られたが、その後一度も出た事がないという。明治20年頃から全く出なくなって、今はその噂も昔話になっている。
伝説として、町村の郷士、大田黒左馬頭がとげた非業の死による祟りの幽霊火であるという。
元和年間のある夏は、大旱魃で陣内の農民は大いに難儀したが、左馬頭は、毎夜井出の堰口に来ては堰を壊して町村方面に水を落としていた。里人は大いに怒り、ある夜左馬頭を堰口に見つけ出し、詰問したが左馬頭は大いに怒り、土百姓の癖にと農民を殴った。
陣内の里人は憤り、大勢で待ち伏せし、左馬頭が来て水を落とそうとするところを竹槍をもって脇腹を突き刺して殺した。
左馬頭が殺されてから約200年を経た弘化・嘉永の約10年間凶年が続き、農作が悪く、人々は大いに難渋した。これは左馬頭の怨念が祟るものだとして、毎年秋の収穫時に左馬頭の追神祭にて操人形芝居を行って怨霊を慰めた。凶才も消えたので安政3年3月に石碑を建てたという。
◯参考文献
『管内実態調査書.熊本編補遺』熊本県警察本部警務部教養課 1961年
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