玉垂【タマダレ】
◯地域
◯概要
この地域にある生善院は俗称「猫寺」の名でよばれる。
天正の頃、僅か9歳で人吉藩主となった相良忠房にたいして、叔父の大膳助頼貞が、湯山城主佐渡守宗昌とその弟普門寺の僧盛誉と組んで謀反の心ありとの噂が広まった。
3月某日、城中から早速討手が差しむけられたが、この噂は全くのデマだとわかり、すぐ処刑中止の急使が出された。ところがこの使者・犬童九介は無類の酒好きで、途中に免田の茶で焼酎を飲み酔いつぶれて、岩野まで行けず、その夜はとうとう多良木に泊ってしまった。そのあいだに現地では、読経中の盛誉は無残にも斬り殺され、普門寺は焼かれた。
盛誉の母・玖月善女は愛猫玉垂とともに、市房神社に参篭し、二十一日間の断食呪詛をおこない、満願の日、自分の指を噛み切って噴き出る血を猫に舐めさせ「お前は身代わりの怨霊となり、末代までこの恨みを晴らしてくれ」と言い含め、市房山麓の茂間が淵に身を投じて呪い死んだ。
それから間もなく盛誉を斬った侍と、犬童九介は急死し、天正13年には藩主忠房も13歳の若さで亡くなるというように、玖月善女と猫の怨霊は頻りに藩中を悩ませたので、次の藩主・長毎は、焼けた普門寺の跡に生善院を建てて、盛誉、玖月善女、玉垂の霊を慰めた。
◯参考文献
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