新田の虫【シンデンノムシ】
◯伝承地
球磨郡多良木町
◯概要
中原に庄屋の前田喜三衛門、目付け役の半左衛門兄弟がいた。この村には幸野溝が通じ多くの新田が開かれ、次第に暮らし向きが楽になっていった。それというのも、新田開発の為に年貢が安くなっていたからだ。
しかし、これを妬ましく思った他村の百姓が藩に訴え、藩も土地が肥えてきたことを理由に税を引き上げた。これに対して中原の住民たちは年貢を納めない抵抗運動を始めた。庄屋の兄弟は村人に辞めるように呼びかけたが頑として聞かず、藩に減税を願い出るも、その願いは取り下げられ、終いには首謀者を処罰することにした。村人は知らん顔をしたので、庄屋の兄弟を処刑した。
兄弟は「自分たちが非業の死を遂げるのは他村の中傷によるものである。死後は虫となり新田以外の作物を食い荒らす」と言い残し死んだという。
すると翌年から害虫が発生し新田以外の作物を食い荒らすので、兄弟の霊を祀り供養した。それ以来、新田の土か兄弟の墓の土を貰い「新田、新田」と言いながら撒くようになった。
◯参考文献
牛島盛光編著『肥後の伝説』第一法規出版株式会社 1974年9月
球磨郡球磨村にも妖怪の話が多数あります。
三ヶ浦の堤(大久保のため池)の河童の話。ひいひい爺さんが堤の近くの集落で飲んでの帰りに、河童が表れ相撲をとり、帰ってきたときは体中、ぬめりまみれだったと聞きました。また堤で選択をしていた近所の老婆が、引きづりこまれなくなりました。
球磨村の山奥の怪。子供のころ一人で山奥に入ると「がーご」が出て連れていかれると言われていました。老婆で髪の長い山姥的なイメージを持っていました。